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孔穎達の五經正義に於ける「人性」の研究 -特にその多様性と自然-
https://osaka-kyoiku.repo.nii.ac.jp/records/2069578
https://osaka-kyoiku.repo.nii.ac.jp/records/2069578f89ec2c5-553a-446b-b87f-96d0a75b47b0
Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||||||||
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公開日 | 2009-12-07 | |||||||||||
タイトル | ||||||||||||
タイトル | 孔穎達の五經正義に於ける「人性」の研究 -特にその多様性と自然- | |||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
タイトル | ||||||||||||
タイトル | On Human Nature in Wu-Jing-Zheng-Yi | |||||||||||
言語 | en | |||||||||||
著者 |
田中, 利明
× 田中, 利明
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ISSN | ||||||||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||||||||
収録物識別子 | 03893448 | |||||||||||
書誌レコードID | ||||||||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||||||||
収録物識別子 | AN00028164 | |||||||||||
書誌情報 |
ja : 大阪教育大学紀要 第I部門 人文科学 en : Memoirs of Osaka Kyoiku University I Humanities 巻 29, 号 2-3, p. 67-87, 発行日 1981-01-31 |
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出版者 | ||||||||||||
出版者 | 大阪教育大学 | |||||||||||
言語 | ja | |||||||||||
内容記述 | ||||||||||||
内容記述タイプ | Other | |||||||||||
内容記述 | 孟子が人間性を追求した動機は理想的儒教的国家社会-治国平天下を実現するために,社会の構成要員たる人間の本質的性格を分析検討する必要に迫られたことに因る。孟子は天に對立するものとして人間性を追求したのではなく,孟子の理解では天と人間とは連続していた。それよりも政治上の目的のために人間性に検討の目を向けたのである。続く荀子も同じことである。儒教に於ける人間性の問題は政治目的が先にあり,それと人間性とがどう関係づけられるかという可能性を探ることから出発した。この点『荘子』外篇雑篇に現われる人間性の追究は儒教のそれといささか動機を異にする。即ち自然は森羅萬象という形を取って現われているが人間も自然の中に包羅される一群である。されば人間を包んで自然が存在するだけでなく,人間の内部にも自然が存在する筈である。つまり,人間は自然にとって異質な存在ではあり得ない。人間の外側を包む自然に對して人間性はそれと連続している筈である。得られた結論は人間性も自然と連続しており,人間性の中にも亦森羅萬象が存在するという確信であった。表面だけを見れば孟子以降の儒家の理解と軌を一にするが,ここでは自然というものに對する一定の理解が先行しており,それと人間性とがどう関係しているのかという関連性を理解することであった。孔頴達の五經正義に於ける人間性の扱い方は上の二つの流れを受けて展開されるものである。だが比重は荘子的追究の方に傾き,五經正義制定の動機が儒教による思想の国家的統一を狙ってのものであるにも拘わらず,儒教的人間性の追究は漢代の成果を踏襲するにとどまっており,関心は専ら自然の無限的多様性を「性」についても確認し得ることを強調しようとする。追究の手は人間性だけにとどまらない。森羅萬象のあらゆるものにも考察の範囲を拡大する。甲なる人をして甲たらしめている所の甲の本性を知り,水をして水たらしてている所の水の本性を知る。このように,「性」は自然界に存在するあらゆる事物のそれぞれをしてそのように形あらしめている根源なのであるが,正義のこのような特色,それは多様性を呈している所の,物体の根源としての「性」の発見と,自然の本質に迫ろうとする気迫の所産であると見られる。気迫の存在することには意義がある。しかし五經正義が窮極の目的に到達したかといえば,答は否定的にならざるを得ない。それは正義の持つ性格から来る必然の結末である。疏は注を破せずという。經に限定され,注に限定され,有限の枠の内で正義が存在する。經や注が指向してもいないテーマを追うことは正義の範囲を超えることになるからである。本論では,孔頴達の正義がこのような有限性-それぞれに性格の異なる五經と,王弼・韓康伯・孔安国・僞孔安国・毛亨・鄭玄・杜預等の七氏の注家と-の中で示した上述の「気迫」を明らかにし,その事実から何を読み取るべきか,即ちその意義を考察することを目的とする。筆者は唐代思想史を将来明らかにしたいと考えているが,本論はそこに至る一過程をなす作業であると位置づけている。|The Wu-Jing-Zheng-Yi made out by Kong Ying Da and others in the early years of the Tang age gives a lot of descriptions of Human Nature. The present author has studied them and found out gang and rou lying at the basis of the outlook on the Human Nature. What are gang and rou? They are yin and yang in the Yi, the two fundamental elements organizing the universe. This book reads that the two elements also organize Human Nature. The outlook on Human Nature in it is philologically a new theory which had been unknown before then. The present author has tried to make clear the history of the Tang-thoughts. The finding of gang and rou has brought with it an important clue to the study of the history of the thoughts. | |||||||||||
言語 | ||||||||||||
言語 | jpn | |||||||||||
資源タイプ | ||||||||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||||||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||||||||
大教大リポジトリ番号 | ||||||||||||
TD00010034 |